2017/06/14

ミケランジェロさんの生涯【後編】3

ウフィツィ美術館前のミケランジェロ像


Ciao!
ミケランジェロさんの後半生もあと2回で終われそうだよ。目途が立った~。

今回もちょっと長くなってしまったけど、写真多めだから読んでみて。今回はグラフの⑧と⑨のところね。

6.動乱と命の危機
僕の死から少しづつ立ち直るかに見えたミケランジェロさんだったんだけど、その後の人生はなかなか第一象限に復帰できない時期が続いたんだ。

彼が50歳の頃、神聖ローマ帝国(今のドイツのあたり)がイタリアに攻め込んできて、ローマ略奪というルネサンス盛期を終わらせる大事件が起きてしまう。

ローマの街は破壊しつくされ、芸術どころじゃなくなり、人々の生活も大混乱をきたす。余波は全国に広まり、当時ミケランジェロさんのいたフィレンツェでもメディチ家が追放され、メディチ家からの依頼で制作中だった「夜」と「昼」の作業もいったん中止されることになったんだ。

ミケランジェロ、夜
ミケランジェロさん作 夜
1927年から製作がいったんストップ
19歳の時と同じようにメディチ家が追放されたわけだけど、今回のミケランジェロさんは逃げることなく、むしろ1529年にはフィレンツェの要塞建築の専門家として都市の防衛にかかわることになる。つまりメディチの敵に回ったわけ。

ところが、メディチ家は翌年には早々に復権を果たし、自分たちの追放にかかわった人たちをあぶりだし始めたんだ。

防衛の責任者になっていたミケランジェロさんは命の危機を感じて、この時期身を隠していたんだよ。還暦を目の前にして、まさか刺客に命を狙われることになるなんて、きっと思ってなかっただろうね。(グラフ⑧)


7.還暦からの黄金期

とはいえ、同年に教皇クレメンス7世の許しを得て、仕事に復帰。還暦前年の1534年頃には彼からシスティーナ礼拝堂の奥の壁にフレスコ画の作品を描く依頼を受ける。

ちなみに、この年は織田信長が生まれた年なんだよ!ここからイチゴパンツ(1582年)の本能寺の変まで、信長のばく進劇が始まるんだ!あ、それは本題ではなかったね・・・

さて、依頼主のクレメンス7世はフレスコ画の約束の後に亡くなってしまうんだけど、後を継いだパウルス3世もそのプロジェクトを指示してたので、ここから7年かけてミケランジェロさん会心の作品「最後の審判」を完成させるんだよ。

ミケランジェロ、最後の審判
ミケランジェロさん作 最期の審判
もちろん、この作品も大いに賞賛され、老年を迎えたミケランジェロさんに何度目かの黄金期が訪れる。(グラフ⑨の始まり)

その後、同じくヴァチカン宮のパオリーナ礼拝堂で1545年に聖パウロの改宗を
ミケランジェロ、パウロの改宗
Michelangelo, Conversion of Saint Paul

1550年に聖ペテロの磔刑を描くんだけど、
ミケランジェロ、聖ペトロの磔刑
Michelangelo, The Crucifixion of St. Peter

1550年に完成させたこの作品を以て、フレスコ画を書くことをやめてしまったんだ。当時すでに75歳だったミケランジェロさんにはフレスコ画の製作は大変だったみたいで、仲の良かったヴァザーリさんにも「絵を描くことは年寄りの仕事ではない」と手紙を送っているよ。(⑨の終わり)

さて、最後の黄金期を終えたミケランジェロさんだけど、あの人が静かに死を待つはずがない!そう、彼は最後の最後まで究極の美を求めて仕事にまい進したんだ。

次回は、ルネサンス期最強の芸術家として美しく散っていったミケランジェロさんの最期に迫るよ。

ではまたね~。Ciao!

【参考文献】
ジョルジョ・バザーリ 芸術家列伝3

ミケランジェロ日本語版、ブルーノ・コンタルディ/ジューリオ・C・アルガン、Giunti

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